伊達綱  播州祭り屋台の練りの迫力・醍醐味に、この伊達綱の揺れを挙げる人が多い。その揺れる様を見、太鼓の響きを全身で感じると、見ている観客も思わず屋台に同調して体が左右に自然と揺れてしまう。
 伊達綱は古くは、或いは現在でも地区によっては伊達縄と呼ばれている様に、昔は縄の少し太い程度のものであったのが、その名の通り"伊達"振りを競い合う様になって段々と太くなって来たのではないか。
 地域の人々の祭りに懸ける意気込み="伊達"振りからその風俗変遷を考える時、西方の隅絞りに見られる様に、伊達綱・伊達縄以前は、房のみを付けていた可能性が高いと思われる。つまり、房⇒伊達縄(細)⇒伊達綱(太)と云う変遷である。
 しかし、(社)姫路青年会議所並びに屋台文化保存連絡会の足掛け13年に亘る活動が、その推説に一石を投じた。
 本展示会では、飾磨・浜の宮天満宮/宮地区の百年に亘る伊達綱風俗変遷を辿りつつ、この謎を皆様方と一緒に考えて行きたい。

【二股伊達綱】
 製 :明治29年(1896)
 作 :大阪/越後屋
現所有:御津・富嶋神社/濱田南(高津)
寄託先:姫路市書写の里・美術工芸館
旧所有:飾磨・浜の宮天満宮/宮町
 飾磨・浜の宮天満宮/宮町が明治29年(1896)大阪
の越後屋で製作し、明治34年の祭礼後に御津・富嶋
神社/高津(濱田南)へ売却したもの。

 綱上部の房が二股に分かれており、おそらく唯一
無二の伊達綱と思われ、屋台学上大変貴重なもの。
【房】

 製 :明治35年(1902)[推定]
現所有:御津・大年神社/加家
寄託先:姫路市書写の里・美術工芸館
旧所有:飾磨・浜の宮天満宮/宮町
 本房は明治35年(1902)[推定]〜昭和2年(1927)迄
飾磨・浜の宮天満宮/宮町(宮濱)が使用し、昭和の
御大典を記念して屋台を新調した時に、御津・大年
神社/加家に譲渡したもの。
 飾磨・浜の宮天満宮/宮町では、本房の前に上の
二股伊達綱を付けていただけに、房⇒伊達縄(細)⇒
伊達綱(太)と云う変遷の通説を打ち破る発見が、平
成12〜13年に掛けて続いた。
「播州屋台会館(仮称)」早期建設は必要不可欠!
 上掲載の二股伊達綱と本房とは、房から綱への変遷を探る上で一石を投じる重要な祭・屋台文化財の発見
と言えるが、我々民間の手ではここ迄が限界であり、この他にも、播州祭・屋台文化に関する謎は枚挙に遑
が無く、早期に「播州屋台会館(仮称)」を建設し、行政の専門的な手に於いて調査・研究を進めなくては、
貴重な地域固有文化を真の意味で守って行く事が出来なくなる恐れが有ると思うがどうであろうか…。
【伊達綱】
 製 :平成3年(1991)
 作 :淡路/梶内
寄贈元:御津・大年神社/加家
寄贈先:屋台文化保存連絡会
旧所有:飾磨・浜の宮天満宮/宮
 本品は「台場差し」を行う浜の宮天満宮型(下部が
弧を描く様に巻いて取り付ける)とも云えるもので
、浜の宮/宮地区が平成3年(1991)に製作し平成9
年(1997)迄使用、平成12年(2000)に加家地区が譲り
受け平成17年(2005)迄、同地区の屋台(宮町の先々
代屋台)に取り付けられていたもの。
屋保連が渡す「祭・屋台文化の架け橋!!」
 (社)姫路青年会議所が平成8年に開催した「匠の技ー播州祭り屋台の彫刻展」に、加家から狭間を出展戴
いた時、諸々調査する内にその狭間が元々は宮町のものであった事が判った。それが切っ掛けとなり、両地
区間で祭りを通じた交流が始まり、本伊達綱もその縁で宮町から加家へ譲渡されたものである。
 本伊達綱の後、宮町では茶金の伊達綱を使用したが、その伊達綱も加家へ譲渡され、現在も加家屋台に取
り付けられ練り出されている。
 (社)姫路青年会議所・屋台文化保存連絡会の活動が縁で70年振りに交流が復活し深まる。まさに播州祭・
屋台文化活動冥利に尽きるとはこの事である!と感慨深い。
 「播州屋台会館(仮称)」が建設されれば、こう云った隠れた或いは忘れられた繋がりが明らかになり、地
域活性化に大いに寄与すると思うのだが如何!?