場面 |
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6 |
安藝の宮島 |
宮島は太古の昔より島そのものが神として信仰の対象として崇めら
れ、厳島神社の創建は推古天皇即位元年(593)と伝えられている。
清盛の時代には平家一門の信仰篤く、清盛の家人でもあった神主・
佐伯景弘は、朝廷に厳島神社造営を訴え、仁安3年(1168)に社殿を
大修築、現在の規模になった。厳島神社の海中を敷地とした構想は
祭神が海神である為、現世に竜宮城を再現しようとしたとも云われ
ている。
※平清盛:平忠盛の長男として生まれ平氏棟梁となる。保元の乱で
後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で勝利し武士として
は初めて太政大臣に任ぜられる。娘の徳子を高倉天皇に
入内させたが、のち平氏の権勢に反発した後白河法皇と
対立し、治承3年(1179)の政変で法皇を幽閉し徳子の産
んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握る。しかし貴族・寺
社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打
倒の兵が挙がる中、熱病で没した。 |
狭間 |
前田貴史 |
大塩天満宮
中之丁 |
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10 |
朽木隠れ |
平氏に依り伊豆・蛭ヶ小島に配流されていた源の頼朝は、治承4年
(1180年)頼朝は以仁王の令旨を奉じて挙兵。伊豆国目代山木兼隆を
襲撃して殺害するが、続く石橋山の戦いで大敗を喫した。敗走した
頼朝は山中に逃げ込み、朽木の中に隠れていた。敵対する大庭景親
軍が探索に当るが、大庭軍の部将・梶原景時は頼朝の居場所を知る
が情をもってこれを隠し「この山に人跡なく向こうの山が怪しい」
と景親らを導き頼朝の命を救った。この事が縁で後に景時は頼朝か
ら重用されることになる。
※源頼朝:鎌倉幕府の初代征夷大将軍。源義朝の三男。義朝が平治
の乱で敗れると伊豆国へ配流される。伊豆で以仁王の令
旨を受けると平氏打倒の兵を挙げ、関東を平定し鎌倉を
本拠とす。源義仲と平氏を滅ぼし、戦功のあった末弟・
源義経を追放し、諸国に守護と地頭を配し力を強め、奥
州合戦では奥州藤原氏を滅ぼすと共に、義経を倒す。建
久3年(1192)に征夷大将軍に任じられる。 |
狭間 |
二代目
松本義廣 |
大塩天満宮
中之丁 |
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17 |
悪七兵衛景清錣曳き |
那須余一の見事な扇の的騎射の後の小競り合い。太刀を折られ逃げ
る源氏方・美尾屋十郎の兜を平家方・悪七兵衛景清が熊手で引っ掛
け腕力(かいなぢから)で錣を引き千切ったという場面。景清の腕力
と十郎の首の強靭さととお互い讃えたと云う。
※藤原景清:藤原忠清の子。通称・上総七郎。信濃守、兵衛尉。
「悪七兵衛」は勇猛であるが故の異名。尚、悪七兵衛の
「悪」は悪人という意味ではなく勇猛さを指すもの。 |
狭間 |
松田正幸
(梶内) |
大塩天満宮
中之丁 |
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