場面 |
場面紹介 |
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作者 |
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9 |
布引四段目小桜責 |
平清盛により、鳥羽離宮に幽閉されていた後白河法皇を救い出すべ
く、琵琶法師として松波検校が、腰元として娘・小桜が御殿に入り
込む。一方、御殿警護の仕丁・怒り上戸の平次は小桜を捕え、父の
名を吐けと責め乍ら、検校に対しては琵琶を一曲所望する。検校は
娘への折檻を目の当たりにして音色乱れ、悟った平次が検校逃がさ
じと斬りつける浄瑠璃・歌舞伎の名場面。
※後白河院:第77代天皇。諱は雅仁。鳥羽天皇の第四皇子として生
まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ譲位
後は34年に渡り院政を行った。その治世は保元・平治
の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平
清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院
政停止に追い込まれるがその度に復権を果たした。新
興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調し、
その後の公武関係の枠組みを構築した。今様を愛好し
て『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を
残した。 |
狭間 |
前田貴史 |
荒川神社
玉手 |
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11 |
巴御前奮戦 |
木曾義仲の妾・巴御前は、勇心・強力、弓矢・太刀にも秀でまた乗
馬の名人でもあった。信濃・横田河原の合戦では敵七騎を討ち取り
高名を馳せる。
※巴 御 前:信濃国の武将とされる女性。平家物語によれば源義仲
の便女。源平闘諍録によれば、樋口兼光の娘。源平盛
衰記によれば、中原兼遠の娘、樋口兼光・今井兼平の
妹で、源義仲の妾。よく妻と誤記されるが、源義仲の
妻は巴御前ではない。
※木曾義仲:源義賢の次男。源頼朝・義経とは従兄弟にあたる。朝
日将軍・旭将軍とも称された。以仁王の令旨によって
挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、
倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って上洛。皇位継
承への介入等により後白河法皇と不和となり、法住寺
合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍
となるも、朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟
津の戦いで討たれる。 |
狭間 |
三代目
松本義廣 |
荒川神社
玉手 |
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23 |
鶴岡八幡宮(放生会) |
鶴岡八幡宮:武家源氏、鎌倉武士の守護神。境内は国の史跡に指定
されており、宇佐神宮、石清水八幡宮とともに日本三大八幡宮の一
つに数えられる事もある。治承4年(1180)10月、平家打倒の兵を挙
げ鎌倉に入った源頼朝は、12日に宮を現在の地である小林郷北山に
遷す。以後社殿を中心にして幕府の中枢となる施設を整備していっ
た。建久2年(1191年)に、社殿の焼失を機に上宮と下宮の体制とし
改めて石清水八幡宮護国寺を勧請した。頼朝が鎌倉幕府を開いた後
は、源義家が勧請した経緯もあり、武家の崇敬を集めた。
放生会:ほうじょうえ。捕獲した魚や鳥獣を野に放し殺生を戒める
宗教儀式。仏教の戒律である「殺生戒」を元とし、日本で
は神仏習合によって神道にも取り入れられた。収穫祭・感
謝祭の意味も含めて春または秋に全国の寺院や、宇佐神宮
を初めとする全国の八幡宮で催される。 |
狭間 |
三代目
松本義廣 |
荒川神社
玉手 |
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