場面 |
場面紹介 |
部位 |
作者 |
出展地区 |
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1 |
祇園林夜雨 |
白河院の御世、京・祇園近くの御堂辺りに「光を放つ怪しい影が夜
な夜な出没する…ものの怪ではないか」と都びとが噂し恐れる事態
になった。院が寵臣・平忠盛に退治を命じると、忠盛は或る五月の
夜、御堂の陰に身を潜め現れたものの怪を組み伏せた。顔改めをし
てみると、何と御堂の燈明を点ける為に通う老法師であったと云う
「平忠盛怪僧を捕う」の図。
※平忠盛:清盛の父。伊勢平氏で初めて昇殿を許された。北面武士
・追討使として白河院政・鳥羽院政の武力的支柱の役割
を果たすとともに、諸国の受領を歴任し、日宋貿易にも
従事して莫大な富を蓄えた。その武力と財力は次代に引
き継がれ、後の平氏政権の礎となった。NHK大河ドラ
マでは平成の名優・中井貴一が演じていた。ドラマでは
清盛の実父は白河院との設定になっていたが、諸説ある
ものの実際は闇の中である。 |
狭間 |
二代目
松本義廣 |
天神社
中島 |
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2 |
鎮西八郎為朝の強弓 |
保元の乱(1156)に敗れ、伊豆大島に流されたにも拘らず、近隣の島
々を押領していた源為朝は狩野介持光に軍船にて攻め寄せられた。
しかし、為朝が岩上に立ちはだかり先頭を行く船に狙いを定め、大
弓を引き絞り矢を放つと見事命中し、たった一矢にて沈めたので「
為朝の強弓」と後世まで語り継がれている。
※源為朝:平安時代末期の武将。源為義の八男。母は摂津国江口の
遊女。弓の名手で、鎮西を名目に九州で暴れ、鎮西八郎
を称す。保元の乱では父・為義とともに崇徳上皇方に属
して奮戦するが敗れ、伊豆大島へ流される。しかしそこ
でも暴れて国司に従わず、伊豆諸島を事実上支配したの
で、追討を受け自害した。切腹の、史上最初の例といわ
れる。 |
狭間 |
二代目
松本義廣 |
御津・大歳神社
加家 |
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露盤 |
二代目
松本義廣 |
湊神社
児嶋 |
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井筒通金具 |
不詳 |
香寺・大年神社
土師 |
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3 |
待賢門の奮戦 |
平治元年(1159)平清盛が熊野詣での為に京を離れた隙を狙って、源
義朝は、信西入道と対立していた藤原信頼と手を結び謀反を起こし
た。所謂「平治の乱」である。まず後白河上皇と二条天皇を閉じ込
め信西を殺害。清盛は急いで京に戻り天皇と上皇を救い出した。上
皇と天皇を奪われた信頼の迂闊さを呪いつつも義朝はまずは内裏で
敵を迎え撃つ事とし諸門に軍勢を配し義平も守りについた。時に義
平は19歳。待賢門は信頼が守っていたが、そこへ清盛の嫡男・重盛
が攻め寄せ、怯えた信頼は戦わずに逃げ出し門を突破されてしまっ
た。義平は坂東武者17騎を引き連れ重盛の五百騎に真ん中に飛び込
みこれを蹴散らした。義平は敵の大将の重盛に組みかかろうと内裏
の左近の桜、右近の橘の間を七八度も追い回した。
※源義平:源義朝の長男で通称は悪源太義平。源頼朝、義経らの異
母兄にあたる。 |
狭間 |
棒谷雅敏 |
恵美酒宮天満神社
北細江 |
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4 |
常盤御前伏見の里 |
平治の乱で敗れた源義朝の愛妾・常盤御前は京を追われ凍てつく冬
の夜、七歳の今若・五最の乙若・産まれて間も無い牛若を連れ、降
りしきる雪の中を伏見より大和路へと逃れて行ったが、都に残った
母が捕らえられた事を知り、主であった九条院の御前に赴いた後、
平清盛の元に出頭する。常盤は母の助命を乞い、子供達が殺される
のは仕方がないが、子供達が殺されるのを見るのは忍びないので先
に自分を殺して欲しいを懇願する。その様子と常盤の美しさに心を
動かされた清盛は頼朝の助命が決定していたことを理由にして今若
・乙若・牛若を助けたとされている。
※常盤御前:近衛天皇の中宮九条院(藤原呈子)の雑仕女を勤める。
後に源義朝の愛妾となり阿野全成(今若)・義円(乙若)
・義経(牛若)を産む。また後に一条長成に嫁す。 |
狭間 |
二代目
松本義廣 |
高砂神社
藍屋町 |
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5 |
五條大橋 |
武蔵坊弁慶は千本の太刀を集めるべく 999本迄蒐め、あと一口に迫
った長寛3年(1165)、京の五條大橋で横笛を吹く牛若丸と出会う。
牛若の旆する黄金の太刀を奪おうと襲い掛かるも逆に打ち負かされ
臣下の誓いをするに到った。
※牛若丸(源義経):源義朝の九男。源頼朝の異母弟。幼名牛若丸。
平治の乱での父の敗死後、鞍馬寺に預けられ後
に奥州平泉へ下り、奥州藤原氏の当主藤原秀衡
の庇護を受ける。頼朝の挙兵に馳せ参じ平氏討
滅の最大の功労者となるも、平氏との戦に於け
る独断専行や任官問題で頼朝の逆鱗に触れ朝敵
とされる。最後は再び秀衡を頼ったがその死後
頼朝の追及を受けた秀衡の息・泰衡に攻められ
衣川館で自刃し果てた。
※武蔵坊弁慶 :元は比叡山の僧で武術を好み、義経に仕える怪
力無双の荒法師として名高いが、実像は殆ど不
明である。 |
狭間 |
二代目
小河義保 |
富嶋神社
東釜屋 |
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露盤(金具) |
カナセ
下間清平 |
御津・大歳神社
加家 |
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水切金具 |
カナキ
木村円二郎 |
魚吹八幡神社
吉美 |
 |
水切金具 |
竹内博之 |
大塩天満宮
北脇 |
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6 |
安藝の宮島 |
宮島は太古の昔より島そのものが神として信仰の対象として崇めら
れ、厳島神社の創建は推古天皇即位元年(593)と伝えられている。
清盛の時代には平家一門の信仰篤く、清盛の家人でもあった神主・
佐伯景弘は、朝廷に厳島神社造営を訴え、仁安3年(1168)に社殿を
大修築、現在の規模になった。厳島神社の海中を敷地とした構想は
祭神が海神である為、現世に竜宮城を再現しようとしたとも云われ
ている。
※平清盛:平忠盛の長男として生まれ平氏棟梁となる。保元の乱で
後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で勝利し武士として
は初めて太政大臣に任ぜられる。娘の徳子を高倉天皇に
入内させたが、のち平氏の権勢に反発した後白河法皇と
対立し、治承3年(1179)の政変で法皇を幽閉し徳子の産
んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握る。しかし貴族・寺
社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打
倒の兵が挙がる中、熱病で没した。 |
狭間 |
前田貴史 |
大塩天満宮
中之丁 |
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露盤 |
前田貴史 |
荒川神社
玉手 |
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奉納絵馬 |
大木光 |
英賀神社 |
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水引幕 |
川村定弘 |
蒲田神社
西蒲田 |
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7 |
日招きの場 |
想いを寄せた市杵島姫の望みを叶える為、一日でこの難所を開削す
ることを約束した清盛は、近郷から多数の工員を集め「恩賞は望み
のままぞ。ただし工事は一日で仕上げよ」と命じた。工事半ばで潮
が満ち、掘削した堀に潮が流れ込むと、清盛は「海の神、市杵島姫
のために行う我が仕事をなぜ邪魔をする」と満ち寄せる潮を睨みつ
けると、潮が引き去ったという。あと少しで工事が完成しようとし
た頃、太陽は西に傾き日没が迫っていた。市杵島姫との誓いが果た
せなくなると思った清盛は、沈み行く太陽に金扇をかざし「日輪よ
我は清盛である。わが権威を恐れないか。さあ返せ、返せ」と叫ん
だ。すると沈みかけた太陽が中天に戻り、再び沈む頃には工事が完
成し市杵島姫との誓いを果たしたと云う。
音戸の瀬戸:広島県呉市の本州と倉橋島の間にある海峡。幅は約90
mと狭く、そのため潮流が激しく瀬戸内海有数の難所
といわれている。 |
狭間 |
大西一生 |
魚吹八幡神社
坂出 |
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水切金具 |
不明 |
個人蔵 |
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水切金具 |
カナキ
木村円二郎 |
魚吹八幡神社
吉美 |
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水切金具 |
川村三郎 |
魚吹八幡神社
大江島 |
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井筒通金具 |
竹内博之 |
英賀神社
矢倉東 |
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総才端金具 |
不詳 |
魚吹八幡神社
田井 |
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8 |
布引の瀧遊覧 |
平治の乱で敗れた後、再起し京に向かった悪源太義平は平清盛の郎
党・難波経房に捕えられ、京・六条河原で斬首された。斬首の前に
義平は「雷神になって経房以下怨敵を討たん」と言い残した。その
後朝廷の実権を握るまでに上りつめた清盛は、現在の神戸市兵庫区
内にあたる福原に別荘をかまえ、仁安3年(1168)名所として名高い
布引の瀧を遊覧した。その時、空俄かにかき曇り、雷神となった義
平が現れ、清盛を守るために経房が立ち向かうが義平の雷に撃ち殺
されたと云う、源平合戦を描いた軍記物の『平治物語』の一場面。 |
狭間 |
二代目
松本義廣 |
香寺・大年神社
土師 |
 |
9 |
布引四段目小桜責 |
平清盛により、鳥羽離宮に幽閉されていた後白河法皇を救い出すべ
く、琵琶法師として松波検校が、腰元として娘・小桜が御殿に入り
込む。一方、御殿警護の仕丁・怒り上戸の平次は小桜を捕え、父の
名を吐けと責め乍ら、検校に対しては琵琶を一曲所望する。検校は
娘への折檻を目の当たりにして音色乱れ、悟った平次が検校逃がさ
じと斬りつける浄瑠璃・歌舞伎の名場面。
※後白河院:第77代天皇。諱は雅仁。鳥羽天皇の第四皇子として生
まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ譲位
後は34年に渡り院政を行った。その治世は保元・平治
の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平
清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院
政停止に追い込まれるがその度に復権を果たした。新
興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調し、
その後の公武関係の枠組みを構築した。今様を愛好し
て『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を
残した。 |
狭間 |
前田貴史 |
荒川神社
玉手 |
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10 |
朽木隠れ |
平氏に依り伊豆・蛭ヶ小島に配流されていた源の頼朝は、治承4年
(1180年)頼朝は以仁王の令旨を奉じて挙兵。伊豆国目代山木兼隆を
襲撃して殺害するが、続く石橋山の戦いで大敗を喫した。敗走した
頼朝は山中に逃げ込み、朽木の中に隠れていた。敵対する大庭景親
軍が探索に当るが、大庭軍の部将・梶原景時は頼朝の居場所を知る
が情をもってこれを隠し「この山に人跡なく向こうの山が怪しい」
と景親らを導き頼朝の命を救った。この事が縁で後に景時は頼朝か
ら重用されることになる。
※源頼朝:鎌倉幕府の初代征夷大将軍。源義朝の三男。義朝が平治
の乱で敗れると伊豆国へ配流される。伊豆で以仁王の令
旨を受けると平氏打倒の兵を挙げ、関東を平定し鎌倉を
本拠とす。源義仲と平氏を滅ぼし、戦功のあった末弟・
源義経を追放し、諸国に守護と地頭を配し力を強め、奥
州合戦では奥州藤原氏を滅ぼすと共に、義経を倒す。建
久3年(1192)に征夷大将軍に任じられる。 |
狭間 |
二代目
松本義廣 |
大塩天満宮
中之丁 |
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11 |
巴御前奮戦 |
木曾義仲の妾・巴御前は、勇心・強力、弓矢・太刀にも秀でまた乗
馬の名人でもあった。信濃・横田河原の合戦では敵七騎を討ち取り
高名を馳せる。
※巴 御 前:信濃国の武将とされる女性。平家物語によれば源義仲
の便女。源平闘諍録によれば、樋口兼光の娘。源平盛
衰記によれば、中原兼遠の娘、樋口兼光・今井兼平の
妹で、源義仲の妾。よく妻と誤記されるが、源義仲の
妻は巴御前ではない。
※木曾義仲:源義賢の次男。源頼朝・義経とは従兄弟にあたる。朝
日将軍・旭将軍とも称された。以仁王の令旨によって
挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、
倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って上洛。皇位継
承への介入等により後白河法皇と不和となり、法住寺
合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍
となるも、朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟
津の戦いで討たれる。 |
狭間 |
初代
松本義廣 |
魚吹八幡神社
糸井 |
 |
狭間 |
三代目
松本義廣 |
荒川神社
玉手 |
 |
12 |
宇治川の先陣争い |
寿永3年(1184)1月21日、義仲追討の為京へ向かう義経軍は二万五
千騎を率いて宇治に着陣するも、水流激しい宇治川の対岸には、既
に義仲軍が楯を並べ弓を構えていた。しかも宇治橋は橋板が抜かれ
ており、敵前渡河しか方法が無い中、黒馬「磨墨(するすみ)」に跨
った梶原源太景季と、荒馬「生月」を操る佐々木四郎高綱とが川に
飛び入り、先駆けの名誉を賭けた先陣争いの図。
※梶原景季 :梶原景時の嫡男。源頼朝に臣従し治承・寿永の乱で
活躍。父・景時と共にに鎌倉幕府の有力御家人とな
るも、頼朝の死後に没落し滅ぼされる。
※佐々木高綱:近江国の佐々木庄を地盤とする佐々木氏の棟梁であ
る佐々木秀義の四男。歌舞伎の鎌倉三代記にも登場
し、非常に人気のある武士。 |
井筒通金具 |
中村家 |
魚吹八幡神社
坂上 |
 |
水引幕 |
絹常
三代目常三郎 |
塩屋荒神社
塩屋西 |
 |
高欄掛 |
絹常
四代目雅康 |
大宮八幡宮
平田 |
 |
13 |
生田の森 |
史上名高い「一の谷合戦」は寿永3年(1184)2月7日払暁、先駆せ
んと欲して源義経の部隊から抜け出した熊谷直実・直家父子と平山
季重らの5騎が平忠度の守る塩屋口の西城戸に現れ名乗りを上げ合
戦は始まった。卯の刻、知盛・重衡ら平氏主力の守る東側の生田口
の陣前には、源範頼率いる梶原景時・畠山重忠以下の源氏大手軍5
万騎が布陣。範頼軍は激しく矢を射かけるが、平氏は壕を巡らし、
逆茂木を重ねて陣を固めて待ちかまえていた。平氏軍も雨のように
矢を射かけて応じ坂東武者をひるませる。平氏軍は2000騎を繰り出
して、白兵戦を展開。範頼軍は河原高直・藤田行安らが討たれて、
死傷者が続出して攻めあぐねた。そこへ梶原景時・景季父子が逆茂
木を取り除き、降り注ぐ矢の中を突進して「梶原の二度懸け」と呼
ばれる奮戦を見せた。 |
狭間 |
二代目
松本義廣 |
香寺・大年神社
土師 |
 |
14 |
一の谷鵯越え |
寿永3年(1184)2月7日、一の谷に城郭を構える平家追討に出発し
た義経軍は、丹波路から鵯越に向かった。この鵯越えには地元の案
内人を多勢雇って進んだが弁慶が探した案内人は、体格の良さから
義経の覚えめでたく、鷲尾三郎義久と名乗りを許され、甲冑・弓馬
を与えられ行動を共にする事になる。
本作品は、鵯越を行く途中に現れた熊を鷲尾三郎が退治する様子を
描いたもの。平成11年に新調したが、明治末期〜大正初期の作と思
われる先代水引幕の図柄を引き継いでいる。 |
狭間 |
大西一生 |
魚吹八幡神社
宮田 |
 |
水引幕 |
川村雅美 |
富嶋神社
東釜屋 |
 |
15 |
敦盛の最期 |
一の谷で源氏の奇襲を受け劣勢になった敦盛は、騎馬で海上の船に
逃げようとしたが、熊谷次郎直実が「敵に後ろを見せるは卑怯であ
りましょう、お戻りなされ」と呼び止める。敦盛が取って返すと、
直実は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうと兜を上げると我子・
直家と同じ年頃の美しい若武者。直実は躊躇し敦盛を助けようと名
を尋ねるが、敦盛は「お前の為には良い敵だ、名乗らずとも首を掻
いて人に尋ねよ。速やかに取れ」と答え、直実は涙乍らに首を切っ
た。この事が、直実の出家の志を強めたという発心譚が語られる。
※平敦盛 :平清盛の弟・経盛の末子。従五位下。官職にはついて
おらず、無官大夫と称された。
※熊谷直実:字は次郎。諱は直実。子に熊谷直家がいる。平家に仕
えていたが、石橋山の戦いを契機として源頼朝に臣従
し御家人となる。後に出家して蓮生と号した。 |
狭間 |
堤義法
(箔:砂川正二) |
魚吹八幡神社
西土井 |
 |
水切金具 |
カナキ
木村円二郎 |
魚吹八幡神社
吉美 |
 |
井筒通金具 |
カナセ
下間清平 |
塩屋荒神社
塩屋東 |
 |
水引幕 |
絹常
三代目常三郎 |
魚吹八幡神社
坂上 |
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16 |
扇の的 |
文治元年(1185)年2月18日、源義経が屋島の内裏を焼き払い、平家
が船に乗って海に逃げ「今日は日が暮れた。勝負を決すべからず」
と、源平が互いに退き始めたところ、沖から立派に飾った小舟が一
艘、汀へ漕ぎ出で陸から七八段程の所で停船。船上に柳の五衣・紅
の袴を着けた十八九歳の女房が、地紅に金箔で日輪を描いた扇を脇
板に挟み、射てみよと陸へ向かって手招きをする。選ばれし那須余
一宗高、鏑矢を取り弓につがえ、よく引きひょうと放つと鏑矢は、
浦中に響き渡るほど長く鳴り、誤またず見事に要から一寸程の所か
ら扇を射切り、鏑矢は海へ落ち扇は空へ舞い上がった。
※那須余一:那須氏二代目当主。父は那須資隆。妻は新田義重の娘
余一は十一男を示す通称。従って、一般的には与一と
表記される事が多いが、正しくは余一。 |
狭間 |
大木光 |
英賀神社
矢倉東 |
 |
17 |
悪七兵衛景清錣曳き |
那須余一の見事な扇の的騎射の後の小競り合い。太刀を折られ逃げ
る源氏方・美尾屋十郎の兜を平家方・悪七兵衛景清が熊手で引っ掛
け腕力(かいなぢから)で錣を引き千切ったという場面。景清の腕力
と十郎の首の強靭さととお互い讃えたと云う。
※藤原景清:藤原忠清の子。通称・上総七郎。信濃守、兵衛尉。
「悪七兵衛」は勇猛であるが故の異名。尚、悪七兵衛の
「悪」は悪人という意味ではなく勇猛さを指すもの。 |
狭間 |
松田正幸
(梶内) |
大塩天満宮
中之丁 |
 |
18 |
弓流し |
那須余一の見事な扇の的騎射の後、これを見ていた平氏の武者・齢
五十程、黒革威しの鎧を着、白柄の長刀を持ち、興に乗り扇のあっ
た下で舞い始める。義経はこれも射るように命じ、余一はこの武者
をも射抜き船底に逆さに射倒した。平家の船は静まり返り、源氏は
再び箙を叩いてどよめいた。怒った平氏は再び攻め掛る。悪七兵衛
景清の錣曳きなどがあった後、激しい合戦の最中に義経が海に落と
した。弓を敵の攻撃の中で拾い上げ「こんな弱い弓を敵に拾われて
これが源氏の大将の弓かと嘲られては末代までの恥辱だ」と語った
『平家物語』の「弓流し」のエピソードはこの際のことである。 |
高欄掛 |
川村定弘 |
蒲田神社
西蒲田 |
 |
19 |
義経八艘跳び |
屋島の戦いに敗れた平家は、幼帝・安徳天皇を奉じて西国へ逃れ、
残船五百艘の軍船で海上生活を続けていた。寿永4年(1185)3月24
日、義経は熊野水軍・伊予水軍など瀬戸内一帯の水軍を見方に着け
七百艘余りに膨れ上がった兵船を率い、壇ノ浦に於いて平家との最
後の決戦に臨んだ。平家の勇将・教経は、義経を討ち取って後死せ
んとて、義経座乗の船に近寄り名乗りを挙げ詰め寄った。義経は組
み合っては敵わじと身を躍らせて次々と兵船を跳び移った。その身
軽さに教経も諦め、最早これ迄。
と組み着く源氏の兵諸共海中に身を投じた。後世、義経八艘跳びと
は、この飛鳥の如き早業を指して云う。 |
高欄掛 |
梶内 |
櫃蔵神社
北恒屋 |
 |
20 |
碇知盛 |
壇ノ浦合戦は開始当初の平氏優勢から、潮目が変わると共に、義経
軍が平氏軍を押しまくる。やがて平氏軍は壊滅状態になり勝敗は決
した。知盛は建礼門院や二位尼等が乗る女船に乗り移ると「見苦し
い物を取り清め給え、これから珍しい東男を御目にかけましょう」
と笑った。これを聞いた二位尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱
き寄せ、宝剣を腰に差し神璽を抱えた。安徳天皇が「どこへ行くの
か」と仰ぎ見れば、二位尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下
にも都がございます。」と答え安徳天皇と共に海に身を投じた。続
いて建礼門院ら一門の女達も次々と海に身を投げる。更に武将達も
総帥・宗盛を始め多くが西海に身を投じた。最後に知盛は「見るべ
き程の事は見つ」と呟くと、鎧二領を着し碇を抱いて乳兄弟・家長
と共に入水した。
平知盛:清盛の四男。母は時子。同母兄弟に宗盛・重衡・徳子。官
位は従二位上・権中納言。世に新中納言と称された。 |
露盤 |
三代目
松本義廣 |
甲八幡神社
江鮒 |
 |
21 |
舟弁慶 |
文治の始め、平家を西海に討伐し大手柄をたてた義経は、兄・頼朝
と仲違いをし都を出て、再起を計る為、弁慶以下を従え摂津・大物
浦より西国を目指す。海上を見れば 西海に滅んだ平家の一門が波
間に浮かんでいる。「桓武天皇九代の後胤・平知盛の幽霊なり」と
名乗りをあげ知盛の亡霊が出現。知盛は長刀を取り、辺りを払って
波を起こし潮を蹴立て風を吹き掛け義経達の船を混乱させる。義経
は少しも騒がず刀を抜いて戦おうとするが、弁慶は刀では亡霊に敵
うまいと割って入り数珠を押し揉んで怨霊を祈り伏せる。怨霊が次
第に遠離るのを見計らって船を汀に寄せて引き離そうとするが、尚
も慕いよって来る。追い払い祈りのける内に、漸く退き潮に揺れ流
れて怨霊は見えなくなった。 |
狭間 |
大木光 |
英賀神社
英賀東 |
 |
22 |
安宅 |
頼朝の討手から逃れる為、奥州へ向かった義経主従は、安宅の関に
於いて関守・富樫家経に嫌疑を懸けられ、東大寺勧進の山伏と名乗
り、一応は疑いを晴らすも、番卒の訴えで強力姿の義経が呼び止め
られる。しかし、弁慶が義経を金剛杖で打するに及び、家経は弁慶
の苦衷を察し、通行を許可すると云う、高名な勧進帳の場面。 |
狭間 |
初代
松本義廣 |
魚吹八幡神社
長松 |
 |
狭間 |
三代目
松本義廣 |
生矢神社
亀山 |
 |
23 |
鶴岡八幡宮(放生会) |
鶴岡八幡宮:武家源氏、鎌倉武士の守護神。境内は国の史跡に指定
されており、宇佐神宮、石清水八幡宮とともに日本三大八幡宮の一
つに数えられる事もある。治承4年(1180)10月、平家打倒の兵を挙
げ鎌倉に入った源頼朝は、12日に宮を現在の地である小林郷北山に
遷す。以後社殿を中心にして幕府の中枢となる施設を整備していっ
た。建久2年(1191年)に、社殿の焼失を機に上宮と下宮の体制とし
改めて石清水八幡宮護国寺を勧請した。頼朝が鎌倉幕府を開いた後
は、源義家が勧請した経緯もあり、武家の崇敬を集めた。
放生会:ほうじょうえ。捕獲した魚や鳥獣を野に放し殺生を戒める
宗教儀式。仏教の戒律である「殺生戒」を元とし、日本で
は神仏習合によって神道にも取り入れられた。収穫祭・感
謝祭の意味も含めて春または秋に全国の寺院や、宇佐神宮
を初めとする全国の八幡宮で催される。 |
狭間 |
三代目
松本義廣 |
荒川神社
玉手 |
 |
24 |
鶴岡八幡宮(流鏑馬) |
流鏑馬:やぶさめ。疾走する馬上から的に鏑矢を射る、日本の伝統
的な騎射の技術・稽古・儀式の事を言う。馬を馳せながら
矢を射ることから「矢馳せ馬(やばせうま)」と呼ばれ、時
代が下るにつれて「やぶさめ」と呼ばれるようになったと
いわれる。又、馬上における弓術には、他に笠懸や犬追物
があり、流鏑馬と合わせて「騎射三物」とされる。的と射
手との距離を十〜十五間に一つ置いたものを「笠懸」、竹
垣で囲んだ馬場に百五十匹の犬を放し、射手36騎が三手に
分かれて犬を射るものを「犬追物」という。犬追物では、
犬を傷つけないよう「蟇目」と呼ばれる大型の鏑をつけた
矢を用いる。 |
露盤 |
初代
中山龍雲 |
松原八幡神社
妻鹿 |
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25 |
富士の巻狩り |
巻狩りとは、部下を引き連れた大名・豪族達が、何千何万と云う勢
子に、樹海や草原から、猪・鹿・狸・兎など無数の野獣を追い出さ
せ、待ち構えた騎馬にて追い詰め、矢で射ると云う狩猟であるが、
これは大規模な軍事演習でもあり、鎌倉幕府の威勢を天下に誇示す
る為でもあった。建久4年(1193)5月、源頼朝率いる諸国の武士団
が、富士の裾野に集まり大規模な巻狩りを行なった。その時、一頭
の大猪が暴れ出て、これを見た仁田四郎忠常が猪に逆乗りし短刀で
仕留め、頼朝より大いに称賛されたと云う図。
仁田四郎忠常:伊豆国仁田郷の住人で、治承4年(1180)の源頼朝挙
兵に加わる。頼朝からの信任は厚く、文治3(1187年)正月、忠常が
危篤状態に陥った時、頼朝が自ら見舞っている。建久4年(1193年)
の曾我兄弟の仇討ちの際に、兄の曾我祐成を討ち取る。 |
狭間 |
二代目
中山龍雲 |
蒲田神社
上蒲田 |
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水引幕 |
絹常
三代目常三郎 |
香寺・大歳神社
岩部 |
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26 |
矢の根 |
父の仇を討つ為、矢の根を砥いでいた曾我五郎時致が砥石にうたた
寝をしていると、兄・十郎祐成が工藤祐経の館に捕えられているの
で、助けに来て欲しいと夢告があった。即座に飛び起きた五郎は、
通り掛った大根売りの馬を奪い、曾我より大礒へ駆け出すと云う
「曾我の大礒」の図。
曾我五郎時致:3歳の時、実父・河津祐泰が安元2年(1176)に一族
の工藤祐経に暗殺され、その後母の再嫁先である相模国曾我荘の領
主曾我祐信を養父として兄祐成と共に養育され、曾我氏を称した。
建久4年(1193)富士の巻狩りが行われた際、兄祐成とともに父の敵
工藤祐経を殺害し、兄は仁田忠常に討たれ、時致は将軍源頼朝の宿
所を襲おうとしたが捕らえられた。翌日頼朝の取調べを受けた際、
仇討ちに至った心情を述べて頼朝は助命を考えたが、祐経の遺児・
犬房丸の要望により処刑された。 |
狭間 |
長谷川義秀 |
二之宮神社
中仁野 |
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狭間 |
大木光 |
松原八幡神社
妻鹿 |
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番外 |
不詳 |
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狭間 |
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櫃蔵神社
北恒屋 |
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