意を彫り技を刻む
〜匠の技−播州祭り屋台彫刻展〜
■ 場面紹介 (その3) ■
巴御前奮戦
木曽義仲の妾・巴御前は、木曽仲三の娘であり、勇心・強力、弓矢・太刀にも秀で、乗馬の名人でもあった。信濃・横田河原の戦で敵七騎を討ち取り高名を馳せる。
布引四段目小桜責
平清盛により、鳥羽離宮に幽閉されている後白河法皇を救い出すべく、琵琶法師として松波検校が、腰元として娘小桜が御殿に入り込む。一方、御殿警護の仕丁・怒り上戸の平次は、小桜を捕らえ、父の名を吐けと責め乍ら、検校に対しては琵琶一曲を所望する。検校は、娘の折檻を目の当たりにして音色乱れ、悟った平次が検校逃がさじと斬りつけると云う浄瑠璃・歌舞伎の名場面。
五條大橋
武蔵坊弁慶は、千本の太刀を集めようとして、後一本に迫った時、京の五條大橋にて、横笛吹く牛若丸と出会い、黄金の太刀を奪おうと襲いかかるも、打ち負かされた。ここに牛若丸・弁慶が主従の契りを結ぶ事となった。
仁田四郎忠常の高名
建久4年(1193)5月、源頼朝は富士の裾野にて巻狩りを行う。その時、一頭の大猪が荒れ狂い猛進するのを、豪胆を以て音に聞こえた忠常が、馬上颯爽と現れ、後ろ向きに大猪に飛び乗り、腰の刀にて仕留め、頼朝より大いに称賛された。
村上義光錦旗奪還
護良親王が従者と共に、山伏姿に身をやつし、紀州より熊野を経て吉野へ進んだ時、芋瀬の豪族は、宮を見逃そうと思ったが、後日、鎌倉の咎めを恐れ一計を案じ、錦旗を賜った。一行より遅れた彦四郎義光、通りがかりに下僕の持つ旗を見れば、正しく錦旗。義光怒り、下郎持ちたる錦旗を取戻し、大の男を引っ掴み、七間ばかりも投げつけたと云う。
川中島合戦
川中島最大の合戦、永祿4年(1561)9月10日の戦に於いて、上杉謙信は、白布にて顔を覆い、夜明けの濃霧を幸い唯一騎武田信玄の本陣に斬り込む。信玄は、謙信の鋭い太刀先に、刀を抜く間無く、軍扇にて受け止める。
須佐之男命大蛇退治
出雲国に降られた須佐之男命は、八つの頭を持つ八岐の大蛇に怯える、櫛名田媛をお救いになる為、八つの酒樽を以て、大蛇を酔わせ、十握の剣にて退治をされた。この時、大蛇の尾の中から、刃鋭い立派な剣が手出てきたので尊は、天照大神に献上された。これが三種の神器の一つ「天叢雲剣」である。
三豪傑桃園に義を結ぶ
漢王室の末孫・劉備玄徳は、黄巾の乱が起こり、漢朝が危機に瀕するや、志を同じくする、関羽・張飛と桃園に於いて義兄弟の契りを結んだ。劉備を長兄・関羽を次兄・張飛を末弟とした三豪傑は、近在の壮丁を率いて賊徒討伐の義勇軍をを起こし、各地を転戦し大功を挙げた。
焚香操琴
僅か二千五百の兵を率い、西県城に駐屯していた諸葛孔明は、突如、十五万の司馬仲達軍の襲撃を受ける。城兵は慌て慄くが、孔明は落ち着き払い、城外の兵を全て引っ込め、四方の城門を開け放ち、又、自身は唯一人、城楼に坐し、悠然と香を焚き琴を弾いていたので、司馬仲達は、孔明の罠と思い軍勢を撤退したと云う、高名な空城の計を彫った場面。
牛若丸鞍馬山修行の場
牛若丸は七歳の時、鞍馬山の東光坊・正坊阿闍梨の弟子となり、学問・武芸に励んだが、特に武芸に関しては、鞍馬の天狗が鍛えたと云う。
熊坂
鞍馬山の牛若丸は、藤原泰衡の元に身を隠す決心をし、金売吉次に導かれ奥州・平泉に下る途中、美濃国・青墓の宿に於いて、夜半、大盗・熊坂長範に襲われるが、牛若丸の秘技に依り、長範を退治する逸話。

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